Fumiko’s Second Life

2008年に脱サラした主婦が開業して店を始めるまで〜始めてからの約2年間の記録

光が丘の想い出

この度、光が丘のコミュニティサイト・光が丘ウォーカー日記ハウス1104号室
入居させていただくことになったので、
光が丘住民でなくなって5年余り経ちますが、
今でも時々買い物などにでかける街・光が丘について書いてみたいと思います。

光が丘は私が生まれた頃はグラントハイツという米軍宿舎のあった場所で、
小学生の頃には米軍より返還され、社会科の授業で配られた練馬区白地図
ぽっかりと白く空き地のようになった区画に「旧グラントハイツ」と書かれていました。

80年代になって光が丘公園ができ、光が丘1丁目から7丁目までの住居表示が施行され、
話題のニュータウンとして光が丘パークタウン光が丘団地)が着々と完成し、
1987年に駅直結のショッピングセンター光が丘IMAができたときには
現在のLIVINが光が丘西武という業態だったので、
当時、現在と同じ上石神井に住んでいた私は、ちょうど免許取り立ての頃で、
親の車で西武にでかけるのがちょっとした楽しみでした。
(LIVINに業態変更してしまった今では、「ちょっと大きな西友」といった感じで、
特に食料品売り場の棚の中身が西友とかなり共通化されてしまい、
デリカの出店スペースがあること以外は西武の面影が少なくなってしまいましたが、
地下1階から1階へ上がるエスカレーター脇の木の階段のようなスペースに
西武が文化や流行を牽引していた頃の名残が感じられます)

大江戸線が開通した現在でも、上石神井と光が丘は、
1時間に3本ぐらいしかない吉祥寺~成増間を結ぶ西武バスか、
西武バス~西武池袋線大江戸線と乗り継ぐかしないという、
車以外の移動手段に乏しい区間なのですが、
大江戸線ができるまでの長い間、練馬区の中では「陸の孤島」というイメージでした。

そんな光が丘に自分が住むことになるとは夢にも思っていなかったのですが、
1997年秋に妊娠したことがわかり、当時住んでいた豊島区千川のマンションには
ベビーベッドを置く場所すらなかったので、
同じぐらいの家賃で1部屋増やすために物件を探し始めたところ、
その年の12月に大江戸線が練馬~新宿間が開通し、
光が丘から新宿まで1本で行けるようになることがわかったため、
対象範囲を光が丘まで広げると、光が丘1~7丁目より外側の高松や田柄といったエリアなら
比較的家賃が安いことがわかり、高松5丁目に条件に合う物件が見つかって、
1997年の12月、光が丘の住民になりました。

生まれ育った上石神井が南北を分断する西武線の踏切と
西武バスが行き交う道幅の狭い商店街から成る「歩行者に優しくない駅前」
であるのに対し、
電車は地下、歩道と道路が完全に分けられた「歩行者に優しい街」なので、
ベビーカーを押しながらあちこち買い物に行ったり、お散歩したり、
フリーマーケットにでかけたりと、とにかく乳幼児を育てるには最適な場所でした。

息子が小学校に上がる前に実家のある上石神井に引っ越しましたが、
ヨチヨチ歩きの子供を持つ家庭にとって、光が丘は本当に過ごしやすい場所でした。
最初からエレベーターやスロープが完備されていた光が丘から上石神井に引っ越したとき、
海外に行く時にスーツケースを持って階段を昇らなければなりませんでしたが、
数年前にやっとエレベーターが使えるようになったという遅れようで、
私が光が丘で子育てをしていた頃に上石神井でベビーカーを利用していた人は
さぞかし不便だったことと思います。

今でも時々光が丘には買い物や食事に出かけることがありますが、
息子が赤ちゃんだった時、ヨチヨチ歩きだった時、口足らずだった時、オムツをしていた時・・・に過ごした光が丘なので、あちこちの景色を見る度、いろいろなことが蘇ってきて、
ちょっと胸がキュンとなります。

そんな思い出の街で産休の時期に近所の友達も少なく、あれこれ不安な気持ちでいたときに
いろいろなことを教えていただいた光が丘ウォーカー
日記ハウスの住民という形で戻ってくることができたのも、ご縁があるなぁ、と思います。

まだブログやSNSが無いころからコミュニティサイトを立ち上げ、
今まで続けてきた管理人ご夫妻には本当に感服します。

・・・ということで、元・光が丘住民「すぬ」ことFumikoのブログをよろしくお願いいたします。