Fumiko’s Second Life

2008年に脱サラした主婦が開業して店を始めるまで〜始めてからの約2年間の記録

祖父の歴史を辿って・・・

日曜日に母方の祖父の33回忌と祖母の27回忌の法要を無事執り行い、
祖父が亡くなってから32年も経とうとしていることから
従兄弟たちと「おじいちゃんの何を覚えている?」という話になったとき、
当時小学生だった私達が覚えていたことは休日のおじいちゃんと病床のおじいちゃんの記憶だけで、
「おじいちゃんのことって、何の仕事をしていたかとか、改めて考えるとよく知らないよね」
と話していたら、叔父が「『藤井左内』で検索したら、結構いろいろ出て来るよ」と言うので、帰宅してから早速検索してみると、本当にいろいろ出てきて驚いた。

 

インターネットが普及するより20年近く前に亡くなった父の名前がインターネット上から出て来るとは想像したこともなかったので、今まで一度も検索したことがなかったのだが、
祖父には著書があったことを初めて知った。

 

昭和24年に発行されたその本がAmazonに登録されていることが驚きだったし、
その古書がマーケットプレイスに複数出品されていたことにも驚いた。
早速、コンディションの良さそうな1冊を購入した。
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本文は紙がすっかり茶色くなっているが、表紙と奥付に祖父の名前がしっかりと記されているのが読み取れる。
通商産業省木製品課長」というのが当時の祖父の肩書きであったようだ。

 

本の内容は今で言えば政府刊行物となるような内容で、当時の木工業の分類から業界の現状、
業界団体の名簿まで、淡々と解説・報告されている。
そもそも「木製品課」という部署が通産省にあった意味がわからなかったが、
本書を読んでみると、戦後の産業の発展のため、技術者を海外から招聘する一方、
国内メーカーの保護のため木製品の輸入を一時制限するなど、
政府の介入があってこそ国内産業が発展していった歴史が理解できた。

 

他にも検索結果から、祖父の名前が登場する書籍を発見。この本も購入した。
このように書籍の本文が検索結果として出て来るとは、本当に便利な世の中になったものである。
この本により、通産省の前身、商工省が仙台に設立した工藝指導所にブルーノ・タウトが嘱託として招聘された昭和9年当時、その後の日本を代表するインダストリアルデザイナーとなる豊口克平氏剣持勇氏と共に同指導所に所属していたことがわかった。

 

その当時の祖父の仕事としては、東北工業大学庄子晃子教授が2005年に『産総研TODAY』Vol.5 No.7に寄稿した記事「仙台の工芸指導所の試作品/工芸の科学化、大衆化、輸出化」(HTML版PDF版)に「藤井左内による照明具」とその写真が掲載されており、役人というよりデザイナーであった側面を垣間見ることができた。

 

また、さらに検索してゆくと、工藝指導所が発行していた『工藝ニュース』の第11巻 第4号には「漆統制事情」という記事を寄稿しており、発行された昭和17年当時は「商工省化學局技師」という肩書きだったことも判明した。戦時中に発行されたものなので、ところどころ伏字が見られるが、よく保存されていたと思う。
この記事を引用されている、漆工芸作家・竹中微風の孫とひ孫に当たる方が作成されたHPによれば、『美術及工芸技術の保存』という本に「藤井左内は、戦時中の芸術・技術の保存の仕事を直接担当した人物のひとりである」と解説されているという。
その本はAmazonには古書が出ていなかったので、図書館などで探してみたいと思う。

 

32年前に69歳で他界した祖父は、生きていれば現在100歳、来年1月の誕生日で生誕101年を迎える。
まさに1世紀前に生まれた祖父の歴史を辿る旅は、まだまだ続きそうである。